人事領域で旬な話題の一つが従業員エクスペリエンス(体験)。略してEX(Employee Experience)。顧客体験価値を意味するカスタマーエクスペリエンス(CX)を従業員に当てはめた概念です。
CXでは、顧客がある商品を知ってから購入し、利用、そしてリピート購入に至るまでの一連のプロセスを指す「カスタマージャーニー」という概念を使います。
同様にEXでは従業員のジャーニー、つまり採用面接から入社、そして退職後(時にはアルムナイ採用と呼ばれる退職者の再入社も含まれる)までの過程における個人のモチベーションの上下や悲喜こもごもの体験があることに注目します。
このEXが、人的資本経営の推進するうえでカギを握っていると指摘するのが、人事コンサルティングに長年携わっているPwCコンサルティングのディレクター、加藤守和氏。
加藤氏へのインタビュー後編では、EXを切り口に、人的資本経営、エンゲージメント、そして、これからのリーダー像を紐解きます。

目次
EXは「原因」、エンゲージメントは「結果」
──日本企業のエンゲージメントが国際的に低い傾向にあることが知られています。加藤さんは、EXがエンゲージメント向上のカギを握っているとの持論を持っているそうですね。
エンゲージメントは「結果」であり、従業員エクスペリエンス(EX)がその「原因」といった関係になるでしょう。
人間はその場その場での自己の体験を評価し、それらが記憶として蓄積されます。「困難な課題を解決できて、お客さんからも感謝された」のような成功体験はもちろん、良い上司やメンターに巡り合えたことでポジティブな体験が積み重なれば、仕事や会社へのエンゲージメントが高まります。
逆に社会的意義の乏しい仕事を押し付けられたり、上司に意見を聞いてもらえなかったりといったネガティブな体験が続けば、エンゲージメントは低下します。
──日本では「配属ガチャ」と呼ばれる会社都合の人事異動が主流で、ガチャで外れを引いても「石の上にも3年」と我慢を強いる風潮があります。これらの慣習はEXを損ねてきたように思えます。
最近の国家公務員の人事にまつわる報告や研究会を見れば、日本国家を支え、最も誇らしい職種の一つであった国家公務員といえども、優秀な人材の確保が難しくなっていることがうかがえます。
その要因の一つが、3年前後で別の部署にローテーションしていくジェネラリスト的な人事・配属。職員は自分で主体的にキャリアを築いていけないと感じることが、EXでの「ペインポイント(痛みや不満を感じる場面)」となっています。
自社でEXを向上させたいと思うなら、まず押さえておくべきことは、自分で自分のことを決定できる「自己決定」を社員に提供しているかどうかです。他人の決定に従うしかないのか、自分で決定できる余地があるのかどうか次第でEXは大きく変わってきます。
──新卒ジョブ型採用や公募型異動制度を取り入れる民間企業の取り組みについて、中央省庁も参考にする価値はありそうですね。もっとも、国家公務員には長時間労働という課題もあります。
私が所属するコンサルティング業界も、かつてはハードワークが当たり前で、徹夜を自慢する人もいるようなマッチョな世界の典型でした。しかし、ここ10年で「ワークハード」から「ワークスマート」へと大きく変わりました。
ワークハードによって一人が辞めると、別の一人を採用することになります。こうして人が入れ替わってばかりだと、プロジェクトの安定性がどうしても損なわれます。だから、人材が定着する働き方へと転換しなければ、組織として立ち行かなくなったのです。

──働き方改革は決してキレイごとではなく、企業競争力や経済合理性においてメリットがあるから定着したのですね。
Z世代以降が組織の中心になっていくこれからは、旧来のやり方を見直して魅力的なEXを提供できなければ、人材確保はますます困難になります。
その観点で話すと、上司が部下に「自分で考えろ」や「それくらい自分一人でやれないのか」と突き放すような対応も時代遅れです。コンサル業界でも働き方から組織カルチャーまで、EXに関わるあらゆる側面を変えていく必要に迫られているのです。
EXとCXの二兎を追う
──ここで悩ましいのが、労働時間を減らすなどしてEXを追求すると、迅速できめ細かい顧客対応をはじめCXが犠牲にならないかということです。
「両利きの経営」の発想と似ているかもしれませんが、EXとCXこそ「両立」させるべきです。
マネジャーはメンバーが成長を実感できる環境を作ることでEXを向上させると同時に、クライアントの期待を超える品質を提供する点においてCXの向上も図る。今のマネージャーに求められるのは、EXとCXのバランスを見極めることです。
──「二兎を追うものは一兎も得ず」ではなく、どうすればEXとCXの「二兎を得る」ことが可能になるのですか。
マネジャーはメンバーごとの力量や環境を考慮し、一定水準以上のパフォーマンスが求められる仕事を割り振ることです。
それはメンバーにとって「この仕事で成長できている」と感じられ、しかも、深夜労働や一人で何でも困難を乗り越えるようなマッチョさを要求しないという点でバランスが取れたものになります。
そのさじ加減はマネジャーの腕の見せ所となりますが、こうした積み重ねこそメンバーから「この人と一緒に働きたい」という信頼関係に発展します。信頼関係が高まれば、組織に「社会資本」が形成され、社会資本の高さは組織力向上に直結し、CXの原動力になります。

──人的資本経営では「個」に向き合うべきと言われているものの、現実にはエンゲージメントの総合スコアなどのマス指標の向上を追い求めがちです。EXとCXの両立という視点は、個に向き合うという原点回帰を促す面でも重要な気がします。
まさにエンゲージメントの結果を見て、全社一律の施策を打つようなことは人的資本経営の本質とかけ離れています。
本来はどういった社員にどのような施策を打てばエンゲージメントが高まるのか、対象を絞り込むことが重要です。その最小単位は、結局「個」に行き着きます。
──サーバントリーダーシップや共感型リーダーといった言葉が流行する一方、書籍「リーダーの仮面」(ダイヤモンド社)がヒットしたように感情を排して結果責任を重視するマネジメントスタイルも支持を得ています。その中でEXとCXの両立は新しいリーダーのあり方を提示していると言えます。
これからのリーダーには、二つの人格、つまり事業リーダーとしての顔と、コーチとしての顔が求められます。
つまり、事業リーダーとしてビジネスの方向性を示し、業績面でチームを成功に導く能力が必要です。一方で、コーチとしてメンバー一人ひとりの成長を支援し、潜在能力を引き出す能力も求められます。
人だけを大切にしてもビジネスで結果を出さなければチームは存続できませんし、逆にビジネスだけを追求して人が疲弊しても持続可能ではありません。
居酒屋に学ぶ、優れたリーダー
──先ほどのリーダーが持つ「二つの顔」という点では、昔からリーダーには「正面の理、側面の情、背面の恐怖」、つまり、論理と優しさ、厳しさを状況に応じて使い分けよという言葉もあります。ただ、こうした使い分けは簡単ではありません。
ある居酒屋チェーンで、興味深い事例がありました。チェーン店なので、同じシステム、マニュアル、ジョブディスクリプションで運営されています。にもかかわらず、業績の良い店舗と悪い店舗と明確に差が付いていました。
それらの店舗間での違いは、多くの場合、店長のリーダーシップにあります。良い店舗の店長は、アルバイトスタッフの育成に抜かりがなく、スタッフ一人ひとりに気配りもできます。
加えて、そのような店長がいる店には、自身の右腕となる副店長が育っていきます。
副店長がいると、店舗運営で助けになるだけでなく、スタッフの人間関係もさらに良くなるので辞める人が減っていきます。それどころか、スタッフが自分の友人を「アルバイトするならうちの店がいいよ」と誘ってくるようになります。
──アルバイトスタッフのEXが高まると、いわゆる”リファラル採用”が増えていくのですね。採用コストも大きく減りそうです。
逆に業績の悪い店舗では、多くの場合、店長がことあるごとに不機嫌になってスタッフにつらく当たるなどして店舗の雰囲気が悪くなります。最悪の場合、店長 vs アルバイトスタッフのような対立が生まれ、スタッフが次々に辞めるので人材が定着しません。
こうなると店長は人集めに時間を取られ、店舗のサービス品質改善には一向に手が回らなくなり、CX(顧客体験)も悪いままです。

──店長一人で事業リーダーとコーチの二つの役割を完璧に遂行できなくても、右腕がいれば役割分担ができそうですね。
チェーン店に限らず、他の大企業でも創業者と優秀な右腕の関係で知られているケースがたくさんあるように、企業経営においても通じる部分があるかと思います。
一人で事業リーダー役とコーチ役をうまく兼任できる人もいますが、それができなくても、チームの中で得意不得意を補い合う関係を模索するというアプローチもあります。
モチベーションの源は誰もが異なる
──最後に聞きたいこととして、仕事のやりがいや成長実感以外に、給与や福利厚生、オフィス環境、社風などもEXに影響してくるのではないでしょうか。
ハーズバーグの「二要因理論」が参考になります。この理論では人の不満に関わる「衛生要因」と、満足に関わる「動機付け要因」の二つに分けて考えます。
「オフィスが汚い」、「給与が低い」といった衛生要因が満たされていない状態では、いくらやりがいのある仕事を提供するなどして動機付け要因を高める取り組みをしても、根本的な不満は解消されません。
したがって、まず取り組むべきはこの「不満要因」を取り除くことです。何が不満かは人によって異なるので、ここでも個にフォーカスすることが重要です。
例えば、遠方の実家にいる両親の介護が必要な人にはリモートワークという選択肢を提供するといったように、その人にとって快適な働き方を選べる環境にすることが、EX向上の初期のステップとして重要です。

──衛生要因を改善して不満を解消したら、次にやるべきことが動機付け要因の向上になるのですね。
そうです。動機付けについても、人によって響くポイントが異なります。そこで参考になるのがマクレランドの「動機付け理論」です。
この理論によれば、人間には主に何かを成し遂げたいという「達成」、人と仲良くなりたいという「親和」、影響力を持ちたい、または自分が周囲から認められたいという「パワー」、これら三つの動機または要求に分かれます。
重要なポイントは、人によってこれらの動機の強さのバランスが異なることです。例えば、ゴルフでスコアにこだわる人では達成要求が強く、コンペ後の懇親会を楽しみにする人では親和動機が強いでしょう。表彰台を目指す人ではパワー動機が強い傾向にあります。
──パワー動機は権力欲求とも言われ、それが強い人は周囲に影響力を行使したい、そして責任のある立場に就くことを望む傾向があるようですね。いずれにせよ、趣味だけでなく職場にもこれら三つのタイプの人々がいるように思えます。
ここで気を付けるべきは、表面的な行動や発言だけでは、その人の真の動機は見えにくいということです。なぜなら、本人が本当に「したい」と思っていることとは別に、「すべき」と考えられている社会的な価値観もその人の言動に影響を与えるからです。
私の場合、「加藤さんはフレンドリーに接してくれますよね」と言われることがあります。実は、私の動機のバランスは「達成」が強く、「親和」は弱いです。しかし、苦手であっても仕事上の必要性からフレンドリーに人と接しているので、周囲からは親和の動機が強い人だと思われるのです。

その人の内なる本当の動機を見抜くのは難しく、表面上の言動に基づいて評価したり、仕事のアサインをしたりしてもEXの向上にはつながりません。
表面上の言動でその人のことを決めつけない心持ちを身に付けるためにも、いわゆる「ノーアジェンダ1on1」のような対話が有効手段になります。
例えば、「この前のプレゼンをどう思った」、「週末は何が楽しかったの」といったニュートラルな質問を投げかけることで、相手が何によって感情が動くのかを丁寧に観察するのです。それが本当に人を動機付けるための基本です。
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