ホーム
組織を動かす
組織の「しがらみ」から考える、職場の評価と働きがい
組織の「しがらみ」から考える、職場の評価と働きがい

組織の「しがらみ」から考える、職場の評価と働きがい

 「しがらみ」――。元来は水流を堰き止める柵を意味するが、転じて束縛や制約、煩わしいつながりを指す言葉として使われている。

意思決定のシンプル化に伴う過剰な根回しの減少、上下関係の変化による飲みニケーションの強要の消滅など、組織の「しがらみ」と呼ばれたものは徐々に存在感を薄めつつある。

職場の風通しが良くなり、働きやすさが高まっていることを実感している人も少なくないだろう。

だが一方で、コンプライアンス遵守やハラスメント意識の高まりに伴い、組織内の人間関係そのものが希薄化しているという声も聞く。それは働き手にとって本当に望ましいことなのだろうか。

著書『強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の 弱さ考』で「しがらみ」の価値を問い直す井上慎平氏に、「1on1総研」編集長・下元陽が話を聞いた。

目次

「しがらみ」を引き受けることで得られるもの

下元 井上さんの著書『弱さ考』は、仕事にまつわる様々な常識を問い直していますが、「しがらみ」の価値やそれを手放すリスクを考察していたことも印象的でした。

🖋️「しがらみ」について

都市はしがらみから解放された可能性の海だ。働く場所の選択肢も、数えきれないほどある。ただ、誰しも歳を重ねるごとに、いろんな意味で可能性は狭まっていく。けれど、やっかいなことに、都市には「いつからでも、なんだってできる。なんにだってなれる」と、人の可能性を祝福するキャッチコピーが広告などのかたちであふれかえっている。だから、可能性は自分からあえて狭めていかねばならない。「ありえる私」につながるドアをひとつずつ閉じていく。しがらみをつくるとは、そういうことだ。 (『弱さ考』P240より)

職場の「しがらみ」は煩わしいと感じられがちですが、それを極限まで希薄化していくことは、本当に望ましいことなのか。今回はそうした観点からお話を伺いたいと思います。

1on1総研編集長・下元陽

井上 多くの方が認識している通り、私たちの社会は、長い時間をかけて「選べない」状況を、オセロのように一つずつ「選べる」に変えてきました。恋愛結婚、職業選択。「選べることは正義」という価値観のもとに、人間関係の摩擦や面倒さを減らし続けています。

職場においても、ドライに「しがらみをなくしていこう」と言うことが今では許されるようになりました。その潮流を否定する気はありません。家族のような選べない関係も存在するので、職場を選べる自由には反対したくない。

ただ、かつてに比べ職場を容易に変えられる時代にあっても、多くの日本人はジョブホッパーになることを積極的に選好しているわけではない傾向が、各種の行動データからうかがえます。

人間には安心して過ごせる場所を求める動物的欲求がある。多少の「しがらみ」があろうと、1日の多くを過ごす職場が重要な居場所であることは誰にとっても変わりません。

だからこそ、「職場をもっとよくしていこう」という視点が、メンバー側からももっと生まれて良いと思うのですが、なかなかそうはならない。働き方が多様化し売り手市場が加速する中で、そういう意識が生まれづらくなっているのかもしれません。

下元 若い世代の転職要因は様々ですが、各種の調査では「人間関係」が上位に食い込んでいます。「しがらみ」濃度の高さが引き金になるケースも少なからずありそうです。

井上 しがらみとの距離の取り方は人それぞれでしょうが、私の個人的な経験をお話しすると、結婚して子どもができ、移住したことで、「しがらみ」は確実に増えました。でも、選択肢を狭め、一つの場所に根を張ることで得られた豊かさは確かにあります。「こうすればこんな結果が得られる」と事前に予測できたものは何一つありませんでした。

そこで学んだのが、「世の中にはその面白みが事前には想像できないことがたくさんある」ということです。選択肢が豊富にあると、その先に自分の可能性が大きく広がっているように思えますが、私は逆に、あえて「しがらみ」を引き受けることで、リターンが予測できない世界に踏み出せると感じています。

「金銭で測れない働きがい」が価値を増す

井上 職場に話を戻すと、「部下を選べない」ことはマネジャーにとって一種の「しがらみ」ですよね。会社から「明日からこの子をよろしく」と言われたら、たとえ気が合わなくても向き合わなければならない。相手を選べないのは、部下だけではありません。

下元 偶発的に一緒になった多様なメンバーと、確実に意思疎通を図っていく。その難易度が時代とともに高まっています。

井上 私はコミュニケーションを「コンテンツ(内容)×コンテクスト(文脈)」という式で捉えています。職場のコミュニケーショントラブルの多くは、「コンテクスト」を共有できていないことが原因だと感じます。皆、「コンテンツ」ばかりに気を取られている。

例えば1on1の席上で、部下が「Aプロジェクトをやりたいです」と発言したとします。その発言が「心から挑戦したいと思っていた」なのか「何か言わないとまずいから、上司が気に入る答えを探していた」なのか、コンテクスト次第で意味はまったく変わってくる。

部下の本音は後者だったにもかかわらず、上司は気づかず前者として受け取り、後になって部下がプロジェクトを放り出しているのを見て、「自分で『やりたい』って言ったのに……」と嘆く。このようなコンテクストのズレによるトラブルは頻繁に発生しています。

下元 その部下を擁護するわけではありませんが、確かに我々は与えられた環境や話す相手によって立ち振る舞いを無意識のうちに変えていますね。

井上 さらに日本語はハイコンテクストな言語なので、感情的な衝突を避けるために言葉を曖昧にしがちです。「大丈夫です」がYesなのかNoなのか分からない、といった曖昧さを許容する「察しの文化」。すれ違いが起きるのも無理はありません。

かつての日本企業は、体育会的な上下関係の中で言葉の曖昧さを克服していました。しかし現代では、一方的な上位下達は受け入れられにくく、管理職は非常に高度なコミュニケーション能力が求められます。やさしい世界に変わり、言葉の曖昧さだけが残ってしまった――私にはそんな状況に見えます。

下元 その世界の中でミドルマネジャーは、昭和・平成の価値観を内臓しながら、令和のアウトプットをしなければならない。これを適切に行い、多様なメンバーをまとめ上げるには、極めて高度な能力が求められます。プレーヤーとして優秀な人材が管理職になるキャリアパスは今なお一般的ですが、必ずしも現代のマネジメントに最適な人材を選抜する仕組みとは言えなさそうですね。

井上 現代のマネジャーには、経営戦略を現場向けに"翻訳"する情報マネジメント、メンバーの成長支援やフィードバック、チームの目標設定、短期の効率化と新機会の開拓を両立させる仕組みづくりなど、様々な役割が求められています。

それらを進めていく上で、文字通り「manage(管理する、運営する、成し遂げる)」する、言い変えれば、周囲に気持ちよく動いてもらい、目標を達成する。その力は、プレーヤーとしての能力とは別物ですよね。

下元 井上さんは『弱さ考』で「触媒的能力」という力の価値を提唱されていました。端的に言えば、周りを活かす能力のことですが、まさに今の話にも繋がる気がしました。

🖋️「触媒的能力」について

僕は以前、Fさんという人と一緒に働いていた。彼女は、メンバーのなかではかなり無口だった。ただ、いつもニコニコ話を聞いてくれるので、僕はなんだか自分が話し上手になった気がして、つい張り切って話してしまう。他の人も似たように感じていたようで、Fさんがいるとみな少しだけ饒舌になるのだった。なぜだか会話が弾む。でもFさんは自分から話すわけじゃない。この場合、Fさんには「コミュ力」があるのだろうか。きっとそうは評価されないだろう。でも本当に職場において必要なのは、Fさんのような存在なのだ。 (『弱さ考』P123より)

井上 「その人が何をなしたか」ではなく、「その人が周囲に『何かをなさせたか』」に着目するのが「触媒的能力」の考え方です。書籍ではメンバーの例を紹介しましたが、マネジャーにおいても、この能力を持つ人は優れた人材と言えそうです。

下元 「触媒的能力」の持ち主は、組織に「良いしがらみ」を生み出す気がします。個人的には、この能力が組織の中でもっと評価されても良いのではと思います。数値化しにくい貢献をどう評価するのか、といった課題は残りますが。

井上 そこは、この本ではあえて踏み込まなかったんです。「成果を上げていないが、周りをうまく生かせている人を評価する」という力学が働きすぎると、えげつない「しがらみ会社」になるおそれがあるからです。極端に言えば、360度評価だけで社員の給料が決まる組織になりかねない。

下元 必要以上に社内政治が広がりそうですね。

井上 「人に喜ばれることに働きがいを感じる」という人間の本質は大事にすべきだと思います。ただ、それを報酬に直結させると、「金を稼ぐために喜ばせる」という歪んだ行動を生みかねない。金銭報酬はそのくらい強いドライバーなので、慎重にありたいという立場です。

下元 そうなると、基本的には目標達成度や成果、あるいはコンピテンシーといった測定可能な基準で評価し、そこに報酬を連動させる、というやり方になりそうです。

井上 それが一般的なのでしょうが、そもそも人が人を真にフェアに評価することなど不可能だと思っています。評価の網の目を細かくすればするほど、不満の網の目も細かくなるだけ。厳密でフェアな評価が成立し、それを報酬に適切に反映させられる――そんな幻想からは距離を置いた方がいいかもしれない。

私の知人の会社では、転職者の給与を「市場価値」で決めています。「年収●●万円ほしい」と求められたら、「エージェントや転職市場があなたにその価値を認めていることを示してほしい」と伝え、それを証明できたら希望の額で採用する。

その経営者は自分自身の評価が不完全であることを受け入れているからこそ、このようなドライなスタンスで採用しているのでしょう。

下元  なるほど。今のは経営者視点の話でしたが、働き手から見れば、「完全な評価は不可能」という現実が、ある意味救いになることもありそうです。

例えば、触媒的能力を発揮しているメンバーに、管理職が「君のおかげでチームが回っている」と伝える。評価制度が不完全だからこそ、そのメンバーは数値化できない自分の貢献にも価値があると気づき、その言葉に働く意義を見出せる。

「評価と報酬の連動は完璧ではない」という前提に立てば、金銭以外の承認や感謝の言葉が、より重要な意味を持つようになるのかもしれません。

井上 同感です。 人間は、目の前の人に「ありがとう」と喜ばれたら嬉しいし、そうじゃなかったらムカつく。そんなロジカルな動物じゃないんです。

市場原理に基づけば、給与は低めに設定されるかもしれないが、半期ごとに「あなたに感謝を伝えたい」という声が大量に集まったり、辞める時の色紙に同僚の言葉がびっしり届くような環境であれば、私はそこで心地良く働けると思います。

そういうものを過剰に報酬とリンクさせようとすると、組織はおかしくなる。金銭とは別の形で、貢献が可視化され、称賛される。そうした仕組みを組織全体で育んでいくことが、これから求められていくのではないかと思います。

(構成協力:堀尾大悟、撮影:村中隆誓)

◆前編はこちら

『「お客様化」する若手社員と、感情ケアに疲弊するミドルマネジャー。井上慎平氏が指摘する「上司の役割」の問題点』

「しがらみ」を引き受けることで得られるもの

下元 井上さんの著書『弱さ考』は、仕事にまつわる様々な常識を問い直していますが、「しがらみ」の価値やそれを手放すリスクを考察していたことも印象的でした。

🖋️「しがらみ」について

都市はしがらみから解放された可能性の海だ。働く場所の選択肢も、数えきれないほどある。ただ、誰しも歳を重ねるごとに、いろんな意味で可能性は狭まっていく。けれど、やっかいなことに、都市には「いつからでも、なんだってできる。なんにだってなれる」と、人の可能性を祝福するキャッチコピーが広告などのかたちであふれかえっている。だから、可能性は自分からあえて狭めていかねばならない。「ありえる私」につながるドアをひとつずつ閉じていく。しがらみをつくるとは、そういうことだ。 (『弱さ考』P240より)

職場の「しがらみ」は煩わしいと感じられがちですが、それを極限まで希薄化していくことは、本当に望ましいことなのか。今回はそうした観点からお話を伺いたいと思います。

1on1総研編集長・下元陽

井上 多くの方が認識している通り、私たちの社会は、長い時間をかけて「選べない」状況を、オセロのように一つずつ「選べる」に変えてきました。恋愛結婚、職業選択。「選べることは正義」という価値観のもとに、人間関係の摩擦や面倒さを減らし続けています。

職場においても、ドライに「しがらみをなくしていこう」と言うことが今では許されるようになりました。その潮流を否定する気はありません。家族のような選べない関係も存在するので、職場を選べる自由には反対したくない。

ただ、かつてに比べ職場を容易に変えられる時代にあっても、多くの日本人はジョブホッパーになることを積極的に選好しているわけではない傾向が、各種の行動データからうかがえます。

人間には安心して過ごせる場所を求める動物的欲求がある。多少の「しがらみ」があろうと、1日の多くを過ごす職場が重要な居場所であることは誰にとっても変わりません。

だからこそ、「職場をもっとよくしていこう」という視点が、メンバー側からももっと生まれて良いと思うのですが、なかなかそうはならない。働き方が多様化し売り手市場が加速する中で、そういう意識が生まれづらくなっているのかもしれません。

下元 若い世代の転職要因は様々ですが、各種の調査では「人間関係」が上位に食い込んでいます。「しがらみ」濃度の高さが引き金になるケースも少なからずありそうです。

井上 しがらみとの距離の取り方は人それぞれでしょうが、私の個人的な経験をお話しすると、結婚して子どもができ、移住したことで、「しがらみ」は確実に増えました。でも、選択肢を狭め、一つの場所に根を張ることで得られた豊かさは確かにあります。「こうすればこんな結果が得られる」と事前に予測できたものは何一つありませんでした。

そこで学んだのが、「世の中にはその面白みが事前には想像できないことがたくさんある」ということです。選択肢が豊富にあると、その先に自分の可能性が大きく広がっているように思えますが、私は逆に、あえて「しがらみ」を引き受けることで、リターンが予測できない世界に踏み出せると感じています。

「金銭で測れない働きがい」が価値を増す

井上 職場に話を戻すと、「部下を選べない」ことはマネジャーにとって一種の「しがらみ」ですよね。会社から「明日からこの子をよろしく」と言われたら、たとえ気が合わなくても向き合わなければならない。相手を選べないのは、部下だけではありません。

下元 偶発的に一緒になった多様なメンバーと、確実に意思疎通を図っていく。その難易度が時代とともに高まっています。

井上 私はコミュニケーションを「コンテンツ(内容)×コンテクスト(文脈)」という式で捉えています。職場のコミュニケーショントラブルの多くは、「コンテクスト」を共有できていないことが原因だと感じます。皆、「コンテンツ」ばかりに気を取られている。

例えば1on1の席上で、部下が「Aプロジェクトをやりたいです」と発言したとします。その発言が「心から挑戦したいと思っていた」なのか「何か言わないとまずいから、上司が気に入る答えを探していた」なのか、コンテクスト次第で意味はまったく変わってくる。

部下の本音は後者だったにもかかわらず、上司は気づかず前者として受け取り、後になって部下がプロジェクトを放り出しているのを見て、「自分で『やりたい』って言ったのに……」と嘆く。このようなコンテクストのズレによるトラブルは頻繁に発生しています。

下元 その部下を擁護するわけではありませんが、確かに我々は与えられた環境や話す相手によって立ち振る舞いを無意識のうちに変えていますね。

井上 さらに日本語はハイコンテクストな言語なので、感情的な衝突を避けるために言葉を曖昧にしがちです。「大丈夫です」がYesなのかNoなのか分からない、といった曖昧さを許容する「察しの文化」。すれ違いが起きるのも無理はありません。

かつての日本企業は、体育会的な上下関係の中で言葉の曖昧さを克服していました。しかし現代では、一方的な上位下達は受け入れられにくく、管理職は非常に高度なコミュニケーション能力が求められます。やさしい世界に変わり、言葉の曖昧さだけが残ってしまった――私にはそんな状況に見えます。

下元 その世界の中でミドルマネジャーは、昭和・平成の価値観を内臓しながら、令和のアウトプットをしなければならない。これを適切に行い、多様なメンバーをまとめ上げるには、極めて高度な能力が求められます。プレーヤーとして優秀な人材が管理職になるキャリアパスは今なお一般的ですが、必ずしも現代のマネジメントに最適な人材を選抜する仕組みとは言えなさそうですね。

井上 現代のマネジャーには、経営戦略を現場向けに"翻訳"する情報マネジメント、メンバーの成長支援やフィードバック、チームの目標設定、短期の効率化と新機会の開拓を両立させる仕組みづくりなど、様々な役割が求められています。

それらを進めていく上で、文字通り「manage(管理する、運営する、成し遂げる)」する、言い変えれば、周囲に気持ちよく動いてもらい、目標を達成する。その力は、プレーヤーとしての能力とは別物ですよね。

下元 井上さんは『弱さ考』で「触媒的能力」という力の価値を提唱されていました。端的に言えば、周りを活かす能力のことですが、まさに今の話にも繋がる気がしました。

🖋️「触媒的能力」について

僕は以前、Fさんという人と一緒に働いていた。彼女は、メンバーのなかではかなり無口だった。ただ、いつもニコニコ話を聞いてくれるので、僕はなんだか自分が話し上手になった気がして、つい張り切って話してしまう。他の人も似たように感じていたようで、Fさんがいるとみな少しだけ饒舌になるのだった。なぜだか会話が弾む。でもFさんは自分から話すわけじゃない。この場合、Fさんには「コミュ力」があるのだろうか。きっとそうは評価されないだろう。でも本当に職場において必要なのは、Fさんのような存在なのだ。 (『弱さ考』P123より)

井上 「その人が何をなしたか」ではなく、「その人が周囲に『何かをなさせたか』」に着目するのが「触媒的能力」の考え方です。書籍ではメンバーの例を紹介しましたが、マネジャーにおいても、この能力を持つ人は優れた人材と言えそうです。

下元 「触媒的能力」の持ち主は、組織に「良いしがらみ」を生み出す気がします。個人的には、この能力が組織の中でもっと評価されても良いのではと思います。数値化しにくい貢献をどう評価するのか、といった課題は残りますが。

井上 そこは、この本ではあえて踏み込まなかったんです。「成果を上げていないが、周りをうまく生かせている人を評価する」という力学が働きすぎると、えげつない「しがらみ会社」になるおそれがあるからです。極端に言えば、360度評価だけで社員の給料が決まる組織になりかねない。

下元 必要以上に社内政治が広がりそうですね。

井上 「人に喜ばれることに働きがいを感じる」という人間の本質は大事にすべきだと思います。ただ、それを報酬に直結させると、「金を稼ぐために喜ばせる」という歪んだ行動を生みかねない。金銭報酬はそのくらい強いドライバーなので、慎重にありたいという立場です。

下元 そうなると、基本的には目標達成度や成果、あるいはコンピテンシーといった測定可能な基準で評価し、そこに報酬を連動させる、というやり方になりそうです。

井上 それが一般的なのでしょうが、そもそも人が人を真にフェアに評価することなど不可能だと思っています。評価の網の目を細かくすればするほど、不満の網の目も細かくなるだけ。厳密でフェアな評価が成立し、それを報酬に適切に反映させられる――そんな幻想からは距離を置いた方がいいかもしれない。

私の知人の会社では、転職者の給与を「市場価値」で決めています。「年収●●万円ほしい」と求められたら、「エージェントや転職市場があなたにその価値を認めていることを示してほしい」と伝え、それを証明できたら希望の額で採用する。

その経営者は自分自身の評価が不完全であることを受け入れているからこそ、このようなドライなスタンスで採用しているのでしょう。

下元  なるほど。今のは経営者視点の話でしたが、働き手から見れば、「完全な評価は不可能」という現実が、ある意味救いになることもありそうです。

例えば、触媒的能力を発揮しているメンバーに、管理職が「君のおかげでチームが回っている」と伝える。評価制度が不完全だからこそ、そのメンバーは数値化できない自分の貢献にも価値があると気づき、その言葉に働く意義を見出せる。

「評価と報酬の連動は完璧ではない」という前提に立てば、金銭以外の承認や感謝の言葉が、より重要な意味を持つようになるのかもしれません。

井上 同感です。 人間は、目の前の人に「ありがとう」と喜ばれたら嬉しいし、そうじゃなかったらムカつく。そんなロジカルな動物じゃないんです。

市場原理に基づけば、給与は低めに設定されるかもしれないが、半期ごとに「あなたに感謝を伝えたい」という声が大量に集まったり、辞める時の色紙に同僚の言葉がびっしり届くような環境であれば、私はそこで心地良く働けると思います。

そういうものを過剰に報酬とリンクさせようとすると、組織はおかしくなる。金銭とは別の形で、貢献が可視化され、称賛される。そうした仕組みを組織全体で育んでいくことが、これから求められていくのではないかと思います。

(構成協力:堀尾大悟、撮影:村中隆誓)

◆前編はこちら

『「お客様化」する若手社員と、感情ケアに疲弊するミドルマネジャー。井上慎平氏が指摘する「上司の役割」の問題点』

Kakeai資料3点セットダウンロード バナーKakeai資料3点セットダウンロード バナー
執筆者
下元陽

「1on1総研」編集長。クリエイターチーム「BLOCKBUSTER」、ミクシィ、朝日新聞社、ユーザベースを経て2025年KAKEAI入社。これからの人間のつながり方に関心があります。

記事一覧
LINE アイコンX アイコンfacebool アイコン

関連記事